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日清戦争・第一軍第十九野戦郵便局 [日本郵便史]

台湾占領の野戦局印に用があったので、雑多なカバーを放り込んである箱を次から次へと物色。
朱色の丸一印を見つけたので「あった、あった」と取り出して、じっくり見ると「あら、こりゃ違うわ」と。

で、「これはなんだっけ」と見ると「第一軍第十九野戦郵便局/廿十八年五月四日」というデータです。

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こういう時は、とりあえず大西二郎氏『野戦局印を主とした 日本の軍事郵便』と鈴木孝雄氏『野戦郵便局のロケーティング』を見るのが定石。
両者ともに古典的名著。
前者には、特に目立つ記述はありませんでしたが、後者には開局場所として「蓋平」が記されています。
ただし、これは告知の記載順からの推定である旨の記述があるので、実物による確認ではないことがわかります。

このカバーには、運がいいことに手紙が残っているではありませんか!
この時期の軍事郵便は、後の時代と違って、地名や街の様子、戦闘の事など色々な見聞情報が記されているので「もしかして・・・」と見てみると。
文末の署名の手前に、下の写真のような書き込みが。

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「蓋平」。
この兵士は蓋平に駐屯し、そこでこの手紙を書き、そこにあった野戦郵便局で投函したのです。
つまり第一軍第十九野戦郵便局は、鈴木氏が推定した通り蓋平にあったことが確認されました。

実は、上記とは別人が同じ野戦局から差し出した5月5日のカバーも持っているのですが、こちらにも「蓋平」という記述が出てきます。
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鉄郵印・一ノ関大船渡間 [日本郵便史]

鉄郵印のアルバム見ていて、目に留まったのが下の切手。

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昭和45年3月24日の一関大船渡間、上り2便の鉄郵印です。
特に珍しいものではないし、ごく普通の使用例。

東日本大震災から8年が経ちましたが、甚大な被害を受けて、まだまだ復興途上である陸前高田市の復興支援に、今でも年に数回ですが、お邪魔して本職の立場からお手伝いをさせていただいています。

いつも、東北新幹線で一ノ関で降りて、大船渡線に乗り換え、気仙沼まで鉄道で行くわけです。
陸前高田に行くには、そこでBRTに乗り換えるわけですが、本来は鉄道が気仙沼から先、陸前高田を経由して大船渡まで行っていました。
ですが、今では気仙沼から先は、被害が大きかったためにBRTでの運行に切り替わってしまっています。

ここまで書けば、おわかりですね。
この消印、今のBRT区間も含んだ大船渡線の鉄郵印。
津波で失われてしまった、原日本的な風景の中をのんびりと走っていた郵便車で押されたもの。
今は無き鉄道の存在を示す使用例です。
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明治の時刻表 [日本郵便史]

明治時代、特に中期頃までの郵便逓送を考えるのに鉄道の時刻表は不可欠な存在です。
時刻表と言えば、今なら本屋さんで毎月新しいのが買えますが、この月刊時刻表の登場は明治27年10月まで待たなければなりませんでした。
つまり、それ以前のダイヤを調べるには、単発的に発行された旅行案内(時刻表も兼ねている)や、各鉄道会社が発行した時刻表、そして官設鉄道なら告示を個別に見ていかなければなりません。
あと、意外と役立つのが当時の新聞で、告示も含めていろいろな情報が掲載されています。

ですが、これらの情報源に個別に当たるには大変な労力がかかりますし、また誰もがその情報に手軽にアクセスできるわけでもありません。
そこで簡易的に調べるのに便利な本をご紹介しましょう。
『史料鉄道時刻表 明治四〜二十六』です。


下の画像は、明治15年4月改正の敦賀長浜間の鉄道局発表の時刻表。

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先ほど「簡易的」と書きましたが、注意してもらいたいのは、本書1冊で全てがわかるわけではありません。
どうしてもピンポイントで知りたい時には、やはり個別の記録に当たる必要があります。

本書は、原史料にあたることが難しい方には、大要を知るには便利な史料集なので手元に1冊備えておいて損はないでしょう。

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軽井沢 → 東京 [日本郵便史]

画像は、以前にも紹介したことがある明治29年6月15日に軽井沢から東京へ宛てたはがき。
驚いたことに、同日着になっています。
今だったら、翌日になると思いますが・・・。
現在より早い到達速度を示すことは、鉄道の発達と共にけっこう目に付きますが、これもその一例です。

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消印部分の拡大が下の画像で、軽井沢は「イ」便で、東京は「ヲ」便です。

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手元に、明治29年の鉄道時刻表が無くて、近接した時期では27年11月と29年9月がありました。
両者を見比べると、ほぼ同じ内容(数分の違いがあるばあいもある)なので、大勢に影響は無いと思います。
それで見ていくと、軽井沢「イ」便に対応するのは12時20分発で、高崎に15時に到着。
そこで高崎15時21分発に積み替えられ、上野に18時40分の到着。

実は、軽井沢発は午前中に2便あるのですが、それらが軽井沢発と長野発の区間便なので、恐らく郵便物の搭載はないだろうと考えています。
仮に午前便への搭載があったとしたら、東京の便号がもっと早いはずですし。

下の画像は、保存されている旧軽井沢郵便局です。

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配達局名 [日本郵便史]

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画像の標語印。
左は、
「郵便物には/配達局名を」「目黒/25/9.20/後0-6」
そして右は、
「配達局名を/書きましょう」「中野/26/1.15/後0-6」

増え続ける郵便物に対応するため「郵便物には配達局名を書いてくださいよ」的なことは、意外と古くて明治31年の郵便区記載にまで遡ることができます。
ですが、なかなか人々の間では定着しなかったと見えて、戦前の郵便物を数百通単位で見ても、記載されている例はホントに少ないですね。
これは、田舎で蔵出しをするとよくわかります。

この事情は戦後も変わりはなく、昭和20年代中頃でも10通のうち1通でも書かれていれば、上出来ではないでしょうか。
こうした事情から行われたのが標語印の活用で、左のタイプは昭和24年末から、右のタイプは昭和25年に入ってからの使用開始。
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こんな消印が! [日本郵便史]

楠公はがきに機械印。
もちろん駄物中の駄物です。

ですが、機械印が二重に押されれているとなると、ちょっとした変り物に変身。

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データは下記のとおり。
東京中央/14/11. 16/后0-4
大阪西/14/11. 17/后0-4

抹消印の東京中央はいいとして、なんで大阪西の消印があるのでしょうかね?
大阪西局は宛地でもあるので、紛来でもありませんし、事故でもなさそうです。
しかも機械印ですからねぇ。

なんで到着便が、差立便の方へ混じってしまったのでしょうか。
混じったこと自体が、事故みたいなものですねぇ。

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明治16年5月福井発大坂行きの逓送 [日本郵便史]

旧小判1銭を2枚貼って、福井から大坂へ宛てた書状使用例。
切手も普通、ハンコも普通、発地・宛地とも極めて一般的な、ごく普通の使用例です。

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この時期、福井にはまだ鉄道が来ていなくて敦賀まででした。
そこで考えたのが、どのような逓送だったのか?ということ。

大坂局の消印が「明治16年5月8日ロ便」ということは解っているので、そこから時刻表などを見ながら逆算したところ、下記のような結果となりました。

5月6日
福井局ろ便 →(徒歩)→ 敦賀局
敦賀・福井間の鉄道開通は明治29年7月なので、敦賀まで徒歩であることは確定。

5月7日
敦賀15時20分 →(鉄道)→ 洞道口16時10分
(徒歩)
柳ケ瀬17時45分 →(鉄道)→ 長浜19時
長浜21時 →(汽船) → 大津
この時期、敦賀発の洞道口行きの列車は7時45分発と15時20分発の2便のみ。
朝便に乗せられた可能性も否定はできませんが、後行程の接続と福井・敦賀間の距離および徒歩による山越えを考えると、午後便の可能性が高いと判断しています。
洞道口駅と柳ケ瀬駅の間には、難工事であった柳ケ瀬トンネルがあり、この時期はまだ未開通。このため旅客は、洞道口駅で列車を降り、徒歩で隣の柳ケ瀬駅まで行き、そこで再度列車に乗るという変則的な旅行でした。
柳ケ瀬トンネルが開通して、敦賀・長浜間の直通運転が行われるようになったのは明治17年4月のこと。
接続する列車は柳ケ瀬駅17時45分発で、この列車は長浜港21時発の琵琶湖連絡船に接続しています。

5月8日
大津6時15分 →(鉄道)→ 大坂8時
大坂局ロ便配達
夜行の琵琶湖連絡船から、大津6時15分発の列車に乗せられ、途中の京都駅で接続列車に積み替えられ、大坂駅に8時着後ロ便にて配達。

安価な普通の使用例でも、調べてみると、ここまでは解明することが可能です。
上記の事柄を整理すれば、これでちょっと凝った1リーフが完成。
カバーを貼って、単純に消印データを書き込んだだけよりも、見栄えのするリーフになります。
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在日イギリス局のD30 [日本郵便史]

画像は、在兵庫イギリス局のカバー。
D30の抹消印とクッキリとした証示印が押された名品です。

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このカバー、石川良平氏の旧蔵品として著名だったので、古くからの収集家にはお馴染のもの。
氏の在日外国局関係の売り出しがサザビーズから行われた時には、数々の名品の中から選ばれ、オークションカタログの表紙を飾っています。

その後、しばらくは見る機会がなかったのですが、2007年に切手文化博物館の「神戸開港140年記念 切手と郵便資料展」にひっそりと展示されていて、とても驚いたことをよく覚えています。

D30のカバーは恐らくこれ1点のみだと思いますが、単片では何点くらいあるのでしょうか?
30〜40点程度??
状態の美しさといい、奇跡的なカバーです。
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横浜から大坂へ [日本郵便史]

下の画像は、横浜ボタ印で抹消され、大坂へ送られた小判葉書。
使用例としては、ありきたりで面白くないものとして、小判葉書の束の中でずっと眠り続けていたものの1枚です。

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そんなマテリアルでも何か面白味がないものかと思って、じっと見ていたら横浜から大坂へ翌日配達で意外と早いことに気がつきました。
データは下記の通り。

横浜18年6月21日ロ便
大坂18年6月22日リ便

当時の東海道本線の開通区間は、
新橋〜横浜
神戸〜大津
長浜〜大垣
間だけですから、鉄道で一直線というわけではありません。
ですから、鉄道による逓送で無いことは確かです。

消印から、横浜が朝便であり、大坂が夕方便であることがわかるので、船便を利用したことが特定できます。
こうして見てみると、今まで駄物としか見ていなかったマテリアルでも、リーフに色々と書き込めますね。

欲を言えば「船函」印付きが欲しいのですが・・・。
欲を言えば切りがありませんねぇ。
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芝局のスペースフィラー印 [日本郵便史]

一見、議事堂はがきのどこにでもある昭和24年の使用例に見えますが、よく見ると変ですね。

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時刻表示がありません。
しかも、その時刻表示部分になにやら怪しげなものが写っています。
その拡大が下の画像。

18030.jpg

拡大すると正体がわかりました。
逆位の「17」。
つまり、昭和17年の年号活字を逆さまににして時刻表示部に挿入したわけ。
地味ですが、バラエティとしては面白いですね。

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